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とあるクリスチャンの日々の雑考

どうして、福音書はすぐに書かれなかったのか?

 マルコの福音書は紀元70年代、マタイとルカの福音書が80年代、そしてヨハネ福音書が90年代に書かれたと言われています。イエス・キリストにまつわる事件が起きたのは紀元30年前後ですから、福音書はそれから20年~60年後に書かれたことになります。ネットが発達した情報化社会に生きている私たちにとって、この時間的な隔たりは致命的で、はたして事実が間違いなく書かれているのかどうか、疑いたくなるでしょう。

ところで、今から2年前と少し古い話ですが、阪神大震災を描いたテレビドラマをみる機会がありました。震災からちょうど20年を迎え、震災の記憶と教訓を風化させないため、生存者からのインタビュー、当時の報道記事などをもとに、震災にまつわる当時の状況が再構成されたドラマでした。たしかに、ノンフィクションとはいえ、プライバシー保護やメッセージ性を高める観点からの脚色があったと思います。しかし、20年を経ても「震災によって、尊い6434人の命が奪われた」という事実を歪曲することは不可能です。むしろ、「震災が日本人にもたらした意味」についてより深く考察されており、豊かな教訓を伝えることに成功したと思います。

 震災直後の報道は、センセーショナルなエピソードも多かったと思います。断片的な事実が次々と伝えられる中、それを受け止める私たち一人一人が、自分なりの阪神大震災のイメージを作ってきました。それが誤りだとは言えません。

 しかし、10年、20年と年月を経ることで、単なる「事実の寄せ集め」ではなく、阪神大震災私たちにもたらした意味(価値)を掘り起こし、いわば「客観的な真実」を描いていると私は思いました。

 東日本大震災の傷跡は6年を経てもまだ癒されず、各地で「後遺症」に悩む人たちの生活について、リアルタイムで報道されています。今後20年、30年という年月を経ても、東日本大震災にまつわるエピソードは風化することはないでしょう。

 かえって、無数にある「震災の事実」が整理され、「震災の真実」により近づくことができるかもしれません。

 新約聖書の「福音書」がキリストの死後すぐに書かれなかった理由として、当時はまだ印刷技術が発達しておらず、人から人への口伝いによって事実が継承されていたこと(口承文化)。イエスにまつわる事件があまりにセンセーショナルだったので、イエスの死と復活が当時の人たちにとってリアルタイムの出来事であり続けたこと。また、イエスの弟子たちが、自分たちがまだ生きている間にキリストの再臨が起こると考えていたため、文字として残す必要を感じていなかった可能性などが挙げられるでしょう。

 いずれにしても、エスのわざと教え、十字架の死と復活という事実が、数十年という歳月を経ながら、後世の人々にとって意味のある「生きた事実」へと熟成されていき、ついに四福音書として完成していったのではないか、と思うのです。

 福音書ではありませんが、同じ新約聖書の中にあるパウロ書簡は、紀元50年代、つまりイエスの死と復活からわずか20年ほどで書かれました。これは阪神大震災がテレビドラマ化された時間の隔たりに相当します。

 パウロは、「キリストが死んで墓に葬られ、三日目によみがえった」ことを証言する多くの目撃者がいること、そしてこの復活の事実がもたらした神学的な意味について詳細に語っています。

 福音書はそれよりも数十年後に書かれていますが、少なくとも事実が歪曲されたり、神話化してしまうには時間が足りないと思いませんか?

 にもかかわらず、弟子や信者たちによって美化され、英雄化され、神格化されたイエス、神話化された奇跡や復活として、私たちが聖書を読んでしまうのはなぜでしょうか?

 それは、聖書に書かれている事実が、現代の科学的実証主義に基づく世界観とは相容れないものだからです。しかし、イエスの行った奇跡や復活を「鼻で笑う」のは、人工知能(AI)が人間の知能を超えようとしている「科学万能の時代」だからでしょうか? 

 私たちが「経験則という色眼鏡」で世界を見ているからではないでしょうか?
例:「人はみんな死ぬ。決して生き返らない。➡エス生き返らなかった。」

 つまるところ、福音書の事実を受け入れるのが難しいのは、それが事実としての信憑性があるかないかではなくて、常識から考えてそれが受け入れられるかどうかにかかっているからなのです。

 これは、イエスが行った奇跡を目の前で見ても信じようとしなかった、当時の人たちと同じ理由です。