sound_yuzu_leaves’ blog

とあるクリスチャンの日々の雑考

人はウソのために死ねない

「イエス様はよみがえられた!!」(…本当は、まだ墓の中なんだけどね…( ノД`)

 イエスの弟子の中の「熱狂的信者」が墓の中からイエスの死体を運び出し、「私たちの主である、イエス・キリストは甦られた。」と公に宣言、イエスを神の子に仕立て上げようとした…。キリスト教誕生の裏にはこうした秘話が隠されているのでしょうか?

 しかし、イエス復活の証拠は、「イエスの墓が空であった」という事実だけではありません。500人以上の弟子が同時に「復活のイエス」に出会ったと記録されています(Ⅰコリント15章6節)。

 もしも、イエスの復活が「でっち上げ」だったならば、イエスと同時代に生きていた大勢の人から猛反発を受け、この時点で、キリスト教は消滅していたでしょう。

 しかも、弟子たちの多くは「片田舎の漁師」でした。純粋で素朴な人たち。「黒を白」と言える人たちではありません。まるで「誠実」が服を着て歩いているような人たちでした。そんな弟子たちが、策をめぐらし、インチキをして、イエスの復活を捏造するでしょうか?

 「復活はウソ」と知りながら、死をも恐れずに福音を伝え続け、ローマ世界をひっくり返すまでの情熱を持ち続けることができたのでしょうか?

 そもそも、人は「ウソのために」死ぬことは困難です。

 たとえば、カルト宗教の集団自決においてさえ、彼らは「真実のために」死んでいると言えるのです。なぜなら、

 彼らの教理に従って死ねば天国に行けることが、「彼らにとっては」真実だから死ねるのです。

 これに対して、当時のイエスの弟子たちは、

 エスの復活がウソか真実か、いくらでも調査し、吟味することができました。

 そこが、両者の決定的な違いです。

 人はマインドコントロールや病的な「妄信」のために命を捨てることがあります。しかし、聖書からは、当時のイエスの弟子たちが、こうした病的な妄想にとらわれていたと推察できる言動は全くありません。

 考えてみてください。人が自分の所有している大金を、それに見合う価値が得られる保証が全くないのに、道端に捨てながら歩いているのを見たなら、きっと「あの人は気が狂っている!」と思うでしょう。弟子たちが正常な神経の持ち主だとしたら、

 自分の命と引き換えに得られるものが何もないのに、自ら進んで自分の命を捨てるでしょうか?

 しかも、イエスが逮捕される夜、イエスを見捨てて逃げた臆病な弟子たちです。そんな彼らを根本的に変えてしまう衝撃的な事件を想定しなければ、彼らの行動を説明することは不可能です。

 「イエスが事実復活したから。」

 これ以外に、弟子たちが自分の命を犠牲にしてまでイエスの復活を宣べ伝え始めた理由を、私は見つけることができません。復活が事実だったから、復活の「初穂」であるイエス様に続いて、自分たちも死んで復活すると信じることができたから、弟子たちは自分の命など惜しくなかったのです。