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とあるクリスチャンの日々の雑考

「内発的動機づけ」と看護

 みなさんは「内発的動機づけ」という言葉を聞いたことがありますか?

「動機づけ」というのは「モチベーション」のことですが、内発的動機づけというのは、お金のためでもない、怒られないためでもない、その活動がしたいからするという動機づけのことです。たとえば、本好きな人が学校の試験に出るわけじゃないけど楽しくて本を読んだり、一銭にもならない趣味の活動をしたりすることを言います。一方で、ごほうびや罰がそれを行う理由になっている場合、それは「外発的動機づけ」による活動になります。私たちの仕事で言うと、給料や休暇によってモチベーションが上がったり、下がったりするのは「外発的動機づけ」によるもので、看護が「面白い」「楽しい」と感じることができたり、やり終えた達成感や充実感からそれをしている時は「内発的動機づけ」で動いていると言えます。

 内発的、外発的、どちらのモチベーションも大切なのですが、ここで注意しなければならないことが一つあります。

 それは、すでに内発的動機づけで行動している人を外発的に動機づけようとすると、内発的動機づけが低下するということです。

「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」の関係についてこんな実験をした学者がいます。ある幼稚園で子どもを3つのグループに分け、マーカーペンを使って遊んでもらいました。そして、Aチームの幼稚園児には遊ぶ前に「上手に絵を描けたらごほうびをあげる」と伝えておき、絵を描いたあとごほうびをあげました。Bチームの子どもには先にごほうびのことは触れず、絵を描いた後にごほうびをあげました。そしてCチームの子どもには絵を描いても何もあげませんでした。

結果は、Aチームの子どもが他のチームよりも長い時間、絵を描いて遊んだというものでした。つまり「ごほうび」という外発的動機づけが功を奏したということです。

じつはこの実験には続きがあります。数週間後同じ子どもたちにまたマーカーで遊んでもらいました。ただし、今度は一切ごほうびがありません。結果はどうなったと思いますか?

BチームとCチームは、前回と同じように絵を描いて遊びました。しかし、Aチームの子どもは、絵を描くことにまるで興味をしめさなかったのです。つまり、ただ絵を描きたくて描いていた子どもに「ごほうび」という外発的動機づけを加えることで、かえって絵を描く興味や意欲を失わせてしまったのです。すでに自主的に行動しようとしている人に報酬などで外発的に動機づけようとすると、内発的動機づけは高まるどころか損なわれ、その人のやる気を失わせてしまいます。この事実は心理学者による多くの実験を通して、今では常識的な見解になっています。

 ここに、私たちが日々仕事のモチベーションを保つためのヒントが隠されていると思います。もともと「看護が楽しい!」と思って働いている人でも、いつしかお金や休みのためと割り切ることで、看護という仕事から得られる喜び、やりがい(内発的動機づけ)が損なわれてしまうということです。たしかに、給料や休暇という外発的な動機は私たちが仕事をする大きな理由であることは否定できません。しかし、働く理由を「お金や休暇」などの外発的動機づけに依存することは、かえって看護そのものに対する興味を失わせてしまうということです。

 私たちは日々どんな気持ちで仕事をするか、何をモチベーションの源泉として働くかを自由に選ぶことができます。

 わたしたちは日々意識するとしないとにかかわらず、「何のために働いているか」を自問自答しながら働いています。そして、それがお金や休みのためだろうが、先輩に「指摘されたくない」、失敗して事故報告書を書きたくない、という危機感だろうが、それは個人の自由です。しかし、仕事が何かを得るため(あるいは避けるため)の手段になってしまった時、仕事そのものから得られる報酬(楽しさ、喜び、充実感など)が減少してしまうことは忘れてはなりません。

キリスト教は西洋の宗教ではないのですか?


  キリスト教はもともとユダヤ人の宗教です。イエスも弟子たちも皆ユダヤ人でした。そして、イエスユダヤ人を救うために来ました。イエス・キリストユダヤ人が持っていた聖書(旧約聖書)であらかじめ預言されていた、「預言の成就」だからです。

 ですから、キリストを信じることは、ユダヤ人にとっては極めて当たり前のことです。

 キリスト教ユダヤ人から始まり、異邦人(ユダヤ人にとっての外国人)に広がったため、初めは「キリスト教」や「クリスチャン」という言葉すらありませんでした。イエスを「キリスト」すなわち「救い主」と信じる人が増え広がっていく過程で、ユダヤ人信者が排除されていき、やがてキリスト教は異邦人信者が中心となったのです。そして、異邦人信者を指す「あだ名」として、「クリスチャン」つまり「キリストにつく者」「キリストばか」と言う意味で呼ばれるようになりました。

 キリスト教西アジアに位置するエルサレムパレスチナ⇒小アジア(トルコ)⇒ヨーロッパ⇒北米⇒アジア諸国と、「西回り」で世界に広がりつつあります。そして、現在のキリスト教の中心は西洋ではなく、むしろアジア(韓国、中国)や南米、アフリカなどの第三世界です。韓国ではカトリックプロテスタントを合わせると、人口の3割近くに達し、4人に1人がクリスチャンと言われています。さらに、ユダヤ教徒の中にも、イエスをメシアであると信じる人が少しずつ増えてきています。「福音をユダヤ人に届けよう!」と、キリスト教のスタート地点、エルサレムに回帰するという動きがあり、これは聖書で預言されている「終末時代」が近いことを予感させます。

 こう考えると、キリスト教「西洋の宗教」ではなくて、むしろ「世界を一周している宗教」と言えるのです。

聖書とは何ですか?

 聖書という言葉はギリシャ語の「ビブリオン」=「本」を語源とし、英語では大文字で始まるバイブル(Bible)つまり、「本の中の本」という意味になります。2500以上の言語に翻訳され、年間30万冊以上が頒布されています。まさに「世界のベストセラー」ですが、面白いことに、これほど中身がよく知られていない本も世界にはないでしょう。

 聖書は1冊の本ではなく、66巻(昔はパピルスに書かれた巻物だった)からなる「図書館」のようなものです。

 また、聖書は約1500年にわたって、約40人の著者によって書かれました。著者には、王や政府の高官もいれば、祭司、医師、漁師、農夫、羊飼いなどもいて、その身分や職業は様々でした。しかも、彼らの大部分は、他の人が書いていること、いや、他の著者の存在さえ知りませんでした。

 しかし、聖書には不思議な統一性と完全性があります。聖書を読むと、一つの、全体を貫く頭脳がまぎれもなく支配しているのがわかります。

 つまり、40人の著者が自分の頭で考えたことを自分自身で語ったのではなく、彼らの背後に「本物の著者」=「神」が存在するということです。神が40人の著者を導き、彼らの特性を生かしながら各書を執筆させたからです。

「旧約聖書」と「新約聖書」

  聖書に「旧約」と「新約」があるのはご存じだと思いますが、この「やく」は翻訳の「訳」ではなく、約束の「約」、契約の「約」です。

  ある人が聖書を買おうとして、本屋さんで「聖書が欲しいんですけど。」と店員さんに尋ねると、「旧約ですか?」「新約ですか?」と言われたので、「古い『訳』じゃなくて、新しい『訳』の方をください。」と答えたそうです。こんな笑い話があるくらいですから、意外と誤解されているか方も多いのではないでしょうか。

 聖書は「古い契約」と「新しい契約」が合わさった書物です。

  旧約聖書の内容を一言でいうと、「イスラエル民族の歴史」です。神はアブラハムとその子孫であるイスラエル民族(ユダヤ人)を、全人類に救いを運ぶための器とされました。イスラエル民族の源流をたどってみると、アブラハムに始まって、イサク、ヤコブ、そしてヤコブの12人の息子からイスラエル12部族に広がり、12部族の一つであるユダ部族(ユダヤ人という名もここからきてる)からダビデ王が生まれました。そして、ダビデの家系から救い主が誕生するぞ!」という約束が与えられたのが、「古い約束」つまり旧約聖書の物語です。

 そして、「新約聖書」の内容を一言で言うと、「ついに約束の救い主が到来したぞ!!」という知らせです。これを「福音」、英語では「グッド・ニュース」と言います。「約束の救い主」とは「イエス・キリスト」のことです。

旧約聖書」と「新約聖書」が書かれた時代には400年間の隔たりがあります。しかし、それにもかかわらず、両者の間には密接なつながりがあり、「旧約」から「新約」という流れの底流には、「全人類の救済」という神の壮大な計画を見ることができます。

福音書は信頼できるのでしょうか?

 まず、新約聖書の「福音書」はエスの弟子たちの「目撃者情報」であり、4つの福音書の中で、最後に書かれたヨハネ福音書でさえ、紀元90年頃には完成していたと言われています。つまり、イエス・キリストを拒否する人たちがまだ多く存在していた時代に書かれたのです。

 いい加減なことを書いたら必ず批判される中で書かれました。

 また、先週も話しましたが、イエスの生涯が伝説や神話になりえない、とても早い時期に書かれたことも重要です。

史実として広く認められている、「アリアノス」や「プロタルコス」などのアレクサンドロス大王の伝記でさえ、死後400年以上たってから書かれたものです。

 こうした歴史書に比べれば、まさに福音書は「ニュース速報」と言えるでしょう。

 また、写本の数とその古さでも新約聖書の右に出るものはありません。

例えば、新約聖書と同じ時代に書かれた「タキトゥス」でさえ、現存する写本は20冊ほど。しかも最古の写本は紀元1100年。一方、「新約聖書」はギリシャ語で5000以上、ラテン語で10000以上、その他の言語で9300もの写本が見つかっており、新約聖書の写本は桁違いに多いのです。そして、最古の写本も紀元130年とそれ以外の歴史書に比べて、書かれた時代にずっと近い写本が見つかっています。

 ですから、もしも新約聖書に歴史書としての価値がないとするならば、同時代の他の歴史書はすべて捨て去らなくてはなりません。私たちは、書店で売られている新約聖書をれっきとした「歴史書」として、信頼して読んでいいのです。

 それでも福音書には、イエスが処女から生まれ、盲人の目を開いたり、死人を復活させたり、パンを増やし5000人以上の人が満腹になるまで食べさせたり…信じがたい「奇跡」がいくつも書かれています。

「事実が書かれた歴史書としては福音書を読む気になれません。」こういう声が聞こえてきそうです。

 たしかに、現代人に「福音書の全てを信じろ!」と言うのは難しいかもしれません。

 しかし、福音書のある箇所は事実として読み、「処女降誕」など科学では説明できない奇跡は嘘や勘違いだと決めつけて読むことは許されるのでしょうか?

 弟子たちが間近で目撃した事実、命がけで後世に残そうとした事実です。私たちにとってどんなに説明が難しくても、「事実、起きたことは起きたこと」として福音書を読むことはできないのでしょうか?

 

どうして、福音書はすぐに書かれなかったのか?

 マルコの福音書は紀元70年代、マタイとルカの福音書が80年代、そしてヨハネ福音書が90年代に書かれたと言われています。イエス・キリストにまつわる事件が起きたのは紀元30年前後ですから、福音書はそれから20年~60年後に書かれたことになります。ネットが発達した情報化社会に生きている私たちにとって、この時間的な隔たりは致命的で、はたして事実が間違いなく書かれているのかどうか、疑いたくなるでしょう。

ところで、今から2年前と少し古い話ですが、阪神大震災を描いたテレビドラマをみる機会がありました。震災からちょうど20年を迎え、震災の記憶と教訓を風化させないため、生存者からのインタビュー、当時の報道記事などをもとに、震災にまつわる当時の状況が再構成されたドラマでした。たしかに、ノンフィクションとはいえ、プライバシー保護やメッセージ性を高める観点からの脚色があったと思います。しかし、20年を経ても「震災によって、尊い6434人の命が奪われた」という事実を歪曲することは不可能です。むしろ、「震災が日本人にもたらした意味」についてより深く考察されており、豊かな教訓を伝えることに成功したと思います。

 震災直後の報道は、センセーショナルなエピソードも多かったと思います。断片的な事実が次々と伝えられる中、それを受け止める私たち一人一人が、自分なりの阪神大震災のイメージを作ってきました。それが誤りだとは言えません。

 しかし、10年、20年と年月を経ることで、単なる「事実の寄せ集め」ではなく、阪神大震災私たちにもたらした意味(価値)を掘り起こし、いわば「客観的な真実」を描いていると私は思いました。

 東日本大震災の傷跡は6年を経てもまだ癒されず、各地で「後遺症」に悩む人たちの生活について、リアルタイムで報道されています。今後20年、30年という年月を経ても、東日本大震災にまつわるエピソードは風化することはないでしょう。

 かえって、無数にある「震災の事実」が整理され、「震災の真実」により近づくことができるかもしれません。

 新約聖書の「福音書」がキリストの死後すぐに書かれなかった理由として、当時はまだ印刷技術が発達しておらず、人から人への口伝いによって事実が継承されていたこと(口承文化)。イエスにまつわる事件があまりにセンセーショナルだったので、イエスの死と復活が当時の人たちにとってリアルタイムの出来事であり続けたこと。また、イエスの弟子たちが、自分たちがまだ生きている間にキリストの再臨が起こると考えていたため、文字として残す必要を感じていなかった可能性などが挙げられるでしょう。

 いずれにしても、エスのわざと教え、十字架の死と復活という事実が、数十年という歳月を経ながら、後世の人々にとって意味のある「生きた事実」へと熟成されていき、ついに四福音書として完成していったのではないか、と思うのです。

 福音書ではありませんが、同じ新約聖書の中にあるパウロ書簡は、紀元50年代、つまりイエスの死と復活からわずか20年ほどで書かれました。これは阪神大震災がテレビドラマ化された時間の隔たりに相当します。

 パウロは、「キリストが死んで墓に葬られ、三日目によみがえった」ことを証言する多くの目撃者がいること、そしてこの復活の事実がもたらした神学的な意味について詳細に語っています。

 福音書はそれよりも数十年後に書かれていますが、少なくとも事実が歪曲されたり、神話化してしまうには時間が足りないと思いませんか?

 にもかかわらず、弟子や信者たちによって美化され、英雄化され、神格化されたイエス、神話化された奇跡や復活として、私たちが聖書を読んでしまうのはなぜでしょうか?

 それは、聖書に書かれている事実が、現代の科学的実証主義に基づく世界観とは相容れないものだからです。しかし、イエスの行った奇跡や復活を「鼻で笑う」のは、人工知能(AI)が人間の知能を超えようとしている「科学万能の時代」だからでしょうか? 

 私たちが「経験則という色眼鏡」で世界を見ているからではないでしょうか?
例:「人はみんな死ぬ。決して生き返らない。➡エス生き返らなかった。」

 つまるところ、福音書の事実を受け入れるのが難しいのは、それが事実としての信憑性があるかないかではなくて、常識から考えてそれが受け入れられるかどうかにかかっているからなのです。

 これは、イエスが行った奇跡を目の前で見ても信じようとしなかった、当時の人たちと同じ理由です。

人はウソのために死ねない

「イエス様はよみがえられた!!」(…本当は、まだ墓の中なんだけどね…( ノД`)

 イエスの弟子の中の「熱狂的信者」が墓の中からイエスの死体を運び出し、「私たちの主である、イエス・キリストは甦られた。」と公に宣言、イエスを神の子に仕立て上げようとした…。キリスト教誕生の裏にはこうした秘話が隠されているのでしょうか?

 しかし、イエス復活の証拠は、「イエスの墓が空であった」という事実だけではありません。500人以上の弟子が同時に「復活のイエス」に出会ったと記録されています(Ⅰコリント15章6節)。

 もしも、イエスの復活が「でっち上げ」だったならば、イエスと同時代に生きていた大勢の人から猛反発を受け、この時点で、キリスト教は消滅していたでしょう。

 しかも、弟子たちの多くは「片田舎の漁師」でした。純粋で素朴な人たち。「黒を白」と言える人たちではありません。まるで「誠実」が服を着て歩いているような人たちでした。そんな弟子たちが、策をめぐらし、インチキをして、イエスの復活を捏造するでしょうか?

 「復活はウソ」と知りながら、死をも恐れずに福音を伝え続け、ローマ世界をひっくり返すまでの情熱を持ち続けることができたのでしょうか?

 そもそも、人は「ウソのために」死ぬことは困難です。

 たとえば、カルト宗教の集団自決においてさえ、彼らは「真実のために」死んでいると言えるのです。なぜなら、

 彼らの教理に従って死ねば天国に行けることが、「彼らにとっては」真実だから死ねるのです。

 これに対して、当時のイエスの弟子たちは、

 エスの復活がウソか真実か、いくらでも調査し、吟味することができました。

 そこが、両者の決定的な違いです。

 人はマインドコントロールや病的な「妄信」のために命を捨てることがあります。しかし、聖書からは、当時のイエスの弟子たちが、こうした病的な妄想にとらわれていたと推察できる言動は全くありません。

 考えてみてください。人が自分の所有している大金を、それに見合う価値が得られる保証が全くないのに、道端に捨てながら歩いているのを見たなら、きっと「あの人は気が狂っている!」と思うでしょう。弟子たちが正常な神経の持ち主だとしたら、

 自分の命と引き換えに得られるものが何もないのに、自ら進んで自分の命を捨てるでしょうか?

 しかも、イエスが逮捕される夜、イエスを見捨てて逃げた臆病な弟子たちです。そんな彼らを根本的に変えてしまう衝撃的な事件を想定しなければ、彼らの行動を説明することは不可能です。

 「イエスが事実復活したから。」

 これ以外に、弟子たちが自分の命を犠牲にしてまでイエスの復活を宣べ伝え始めた理由を、私は見つけることができません。復活が事実だったから、復活の「初穂」であるイエス様に続いて、自分たちも死んで復活すると信じることができたから、弟子たちは自分の命など惜しくなかったのです。