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とあるクリスチャンの日々の雑考

クリスチャンほど哀れな人たちはいない?!

キリスト教イエス・キリストの死と復活を土台に生まれた宗教です。ですから、
エスの死と復活がなかったことが証明できれば、キリスト教はその土台を失い、一瞬で消滅してしまいます。
歴史学者の中でも、イエス・キリストが実在の人物だったことを否定する人はほとんどいないと言われています。十字架刑で死んだことも、歴史上の裏付けがあります。
問題はキリストの復活です。

 もしも、キリストの復活が単なる「作り話」であったなら、それを信じるクリスチャンほど滑稽で哀れな人たちはこの世に存在しないでしょう

しかし、弟子たちの目撃証言通り、復活が「歴史的事実」だったならば、どういうことになるでしょうか?

 イエスは聖書について、こう語りました。
「天地が滅びないかぎり、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。すべてが成就されます。」(マタイの福音書518節)
「律法」とは「聖書のことば」と言い換えてもいいでしょう。復活によってイエスは「いのちの永続性」を自ら証明されました。そのエスが、「聖書のことば」は真実であり、全てが信頼に値すると保証しているのです。
ですから、復活が事実ならば、今度は、唯物論者や懐疑論者ほど、哀れな人たちはいないことになります。なぜなら、未信者がどれほど恐ろしい結末を迎えるか、聖書には疑う余地がないほど明確に描かれているからです。
聖書は、世界中の人々が無料で手にすることができる数少ない書物の一つです。インターネットが発達した現代では、イエス・キリストの福音について、読んだり、聞いたり、議論したりする機会はその気になればいくらでもあります。
「イエスの復活は本当にあったことなのか?」「聖書が信頼に足りる書物か?」あなたなりの結論を出すことができるはずです。私は自分の体験からそう断言します。
どうか、日本人の常識、周囲の価値観に惑わされないでください。
もしも、あなたが乗っている電車の行先が何も知らされていないならば、その電車に安心して乗り続けることができるでしょうか?大勢の人がその電車に乗っているからといって、あなたは「終着駅のわからない電車」にそのまま乗っていてよいのでしょうか? 
 ですから、あなた自身で聖書を読み、調べ、あなた自身の頭で考えて結論を出してください。
あなたの「永遠の運命」がかかっている問題の解決を、決して人任せにしてはなりません。

心の闇とS教

 幼いころから同居していた祖父は、「どんな宗教も、一神教の神は名前が違うだけであって、本当は同じ神様である。」という新興宗教(S教)を信仰していました。
つまり、日本の神道仏教、そしてキリスト教ユダヤ教などの一神教も、「教えの根本」においては一致しているというのです。

 たしかに、日本神道における天照大神もそうですが、無神論と言われている仏教でも、大日如来阿弥陀仏のように、一神教の神概念に近い存在もあります。ですから、すべての宗教の真髄は一神教に行き着くという考えには納得できました。国や時代が変われば、同じ唯一の神であっても、「現われ方」が異なる場合もあるんじゃないかと。同じ舞台で俳優が変装して、一人何役も演じる場合がありえるように…。

 一方で、この頃からキリスト教、とくに聖書に出てくるイエスの教えにも興味がありました。しかし、イエス・キリスト「だけ」が神と人との仲介者であって、彼を通さなければ(信じなければ)救われない(天国に行けない)という教えには抵抗がありました。

 そもそも、キリストが生まれる前に死んでしまった、「無数の魂」はどうなっていまうのか?アジアやアフリカの奥地など、宣教師がいまだ派遣されず、イエスの教えを聞けば信じたかもしれないが、聞くことができなかった人はたちの運命はどうなるのでしょう? もし、それが本当ならば、神はなんて不公平な「えこひいき」をする、あるいは「ずぼら」な「うっかり屋さん」ではないかと思っていました。

 ところで、当時の私は「キレる」という、突然制御不能になってしまう自分の感情に悩まされることがありました。職場の同僚にこの話をしても、だれも信じてもらえませんが…。

 クリスチャンになる前、年に1、2度は、職場のストレスや家庭内での不満が鬱積すると、冷静さを失い、家で怒りを爆発させてしまうのです。自分で言うのも気が引けるのですが、私はいつもは穏やか、気長な方ですが、我慢の限界に達すると突然、大声をあげて、周囲にある物を手当たりしだい破壊します。(家族に暴力を振るうことはありませんでしたが。) 「自分の中に魔物が住んでいる」という感じです。

私が神さまを求めるようになったのも、単なる好奇心からだけではなく、自分の中にある「闇の部分」をなんとかしたい、「キレる」のは年に1、2回のことですが、私の心の隙を狙い、破壊的な衝動へと突き動かそうとしている、「悪の力」から解放されたいという願いがあったと思います。

  S教では「神の愛に包まれ、神との一体化を実感する」ための瞑想法があります。

 しかし、20年以上この教えに従い、神との一体感をイメージする瞑想を続けてきましたが、自分の闇の部分は消えませんでした。「神は愛である」という実感を持てず、満たされない何かを感じていました。

 また、人間は本来、罪穢れのない聖い「神の子」であること。人間の「罪穢れ」とは、例えば、ダイヤモンドの表面についたホコリや汚れのように、ふき取ることで綺麗なること。つまり、ダイヤモンドの価値そのもの、人間の本質そのものは清浄であるが、時には、罪(ホコリや汚れ)があるかのように「現れている」にすぎないと教えています。

 神道では罪の問題を穢れ(気枯れ)として、これを禊(みそぎ)によって清めることで解決しようとします。仏教では「無明=心の迷い」が罪であり、あくまでも「迷っている」状態であって、覚りに達することで、罪の問題を処理します。S教も、こうした古来から日本に存在する宗教観を採用しており、私にとっても受け入れやすい教えでしたが、自分の心の闇の問題解決にはつながりませんでした。

 そもそも、人間は本来、罪穢れのない聖い存在なのでしょうか?

 人間の「罪」とは、ダイヤモンドの表面についたホコリや汚れにすぎないのでしょうか。

 人間が本来清浄ならば、キリストによる罪の赦しも贖いも必要がないでしょう。キリストが十字架で死んでも死ななくても、復活してもしなくても、私たちには何の関係もありません。ならば世界の3分の1が信じてるキリストの死と復活は、歴史上稀に見る不可解な事件であり、世界で最大の茶番劇だったのでしょうか?それとも、人類の歴史を変える大事件だったのでしょうか?

 キリスト教がホンモノかニセモノか?」「キリストと対決したい!」という気持ちになっていきました。

 こうして、自分の中の闇の部分、罪の問題に向き合う中で、以前から興味があったキリスト教や聖書について本腰を入れて学ぶようになっていったのです。

 

はじめまして。

 私は札幌市の脳神経外科で働く47歳の看護師♂です。
家族は妻と高校生と小学生の娘、猫1匹の5人(?)家族です。
2年前の4月にプロテスタントの教会で洗礼を受けました。
中年のおっさんですが、クリスチャンとしては生まれたばかりの「赤ちゃん」です。

(想像するとちょっと気持ち悪いですが…^^;)

 キリスト教ではイエス様を信じる決断をした瞬間、霊的に「誕生する」(ボーン・アゲイン)と言うんです。

 私がこのブログを始めたきっかけは、まだまだクリスチャン人口が少ない日本で、聖書とキリストの福音について、自分が学んだり、気づいたり、考えたりしたことを、みなさんと分かち合いたいと思ったからです。


 欲を言えば、宗教に懐疑的な日本人の中で、一人でもキリスト教に興味をもってもらい、信仰に導かれたなぁ、と思って始めました。

 

  私は職場でクリスチャンであることをカミングアウトしているので、ときどきキリスト教について質問を受けます。
その度に感じるのは、クリスチャンや、信仰を持つことへの誤解です。

よく言われるのは、
カトリックプロテスタント?」とか、「お父さんお母さんもクリスチャン?」などが多いですが、「何か悩みでもあるの?」とか、「(心が)病んでるね~。大丈夫かい?」と心配されることもあります。

 宗教というのは「心が弱い人」「心が病んでいる人」がやるものだというイメージが強いからでしょうか?

 クリスチャンを含め、信仰を持っている日本人に幸せそうな人が少ないのも理由の一つにあると思います。

 それは私たちクリスチャンの責任でもありますね。

 私は、自分のことを心の弱い人間でも、不幸な人生とも思っていません。

 何かにすがったり、助けを求めて信仰に入った訳でもありません。

信仰とは自分にはとても自然なことなのですが…。

しかし、日本の中では「風変りな人間」の部類に入るんでしょうね。

 

 誰しも学生時代に、一度くらいは

「本当に神様はいるのか?」「人間は死んだらどうなるのか?」「人は何のために生きているのか?」

などなど、「人生における究極的な問い」について、考えたり、悩んだりしたことがある人は少なくないと思います。

 しかし、社会人ともなれば、日々の仕事に忙殺され、人生の意味など考える余裕がなくなり、そのうちこうした問題について考える必要性すら感じなくなってくるのが普通かもしれません。

 そんなことより、レジャーや趣味、楽しい事は世の中にはたくさんあります。

「人生の問題」などは考えるのは面倒だし、そもそも「答え」なんか見つかるはずもない。

 そう諦めることが、「オトナ」になった証拠でしょう。こうした普通の日本人のなかで、私は変わり者なのでしょう。

 答えを求め続けることを諦めませんでした。

 信仰を持つまでの、詳しい思想遍歴についてはここでは省略しますが、心理学、哲学、宗教などについて学び、祈り、考えを巡らす中で、最後にたどり着いたのが、「世界のベストセラー」と言われる聖書であり、イエス・キリストなのです。