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とあるクリスチャンの日々の雑考

心の闇とS教

 幼いころから同居していた祖父は、「どんな宗教も、一神教の神は名前が違うだけであって、本当は同じ神様である。」という新興宗教(S教)を信仰していました。
つまり、日本の神道仏教、そしてキリスト教ユダヤ教などの一神教も、「教えの根本」においては一致しているというのです。

 たしかに、日本神道における天照大神もそうですが、無神論と言われている仏教でも、大日如来阿弥陀仏のように、一神教の神概念に近い存在もあります。ですから、すべての宗教の真髄は一神教に行き着くという考えには納得できました。国や時代が変われば、同じ唯一の神であっても、「現われ方」が異なる場合もあるんじゃないかと。同じ舞台で俳優が変装して、一人何役も演じる場合がありえるように…。

 一方で、この頃からキリスト教、とくに聖書に出てくるイエスの教えにも興味がありました。しかし、イエス・キリスト「だけ」が神と人との仲介者であって、彼を通さなければ(信じなければ)救われない(天国に行けない)という教えには抵抗がありました。

 そもそも、キリストが生まれる前に死んでしまった、「無数の魂」はどうなっていまうのか?アジアやアフリカの奥地など、宣教師がいまだ派遣されず、イエスの教えを聞けば信じたかもしれないが、聞くことができなかった人はたちの運命はどうなるのでしょう? もし、それが本当ならば、神はなんて不公平な「えこひいき」をする、あるいは「ずぼら」な「うっかり屋さん」ではないかと思っていました。

 ところで、当時の私は「キレる」という、突然制御不能になってしまう自分の感情に悩まされることがありました。職場の同僚にこの話をしても、だれも信じてもらえませんが…。

 クリスチャンになる前、年に1、2度は、職場のストレスや家庭内での不満が鬱積すると、冷静さを失い、家で怒りを爆発させてしまうのです。自分で言うのも気が引けるのですが、私はいつもは穏やか、気長な方ですが、我慢の限界に達すると突然、大声をあげて、周囲にある物を手当たりしだい破壊します。(家族に暴力を振るうことはありませんでしたが。) 「自分の中に魔物が住んでいる」という感じです。

私が神さまを求めるようになったのも、単なる好奇心からだけではなく、自分の中にある「闇の部分」をなんとかしたい、「キレる」のは年に1、2回のことですが、私の心の隙を狙い、破壊的な衝動へと突き動かそうとしている、「悪の力」から解放されたいという願いがあったと思います。

  S教では「神の愛に包まれ、神との一体化を実感する」ための瞑想法があります。

 しかし、20年以上この教えに従い、神との一体感をイメージする瞑想を続けてきましたが、自分の闇の部分は消えませんでした。「神は愛である」という実感を持てず、満たされない何かを感じていました。

 また、人間は本来、罪穢れのない聖い「神の子」であること。人間の「罪穢れ」とは、例えば、ダイヤモンドの表面についたホコリや汚れのように、ふき取ることで綺麗なること。つまり、ダイヤモンドの価値そのもの、人間の本質そのものは清浄であるが、時には、罪(ホコリや汚れ)があるかのように「現れている」にすぎないと教えています。

 神道では罪の問題を穢れ(気枯れ)として、これを禊(みそぎ)によって清めることで解決しようとします。仏教では「無明=心の迷い」が罪であり、あくまでも「迷っている」状態であって、覚りに達することで、罪の問題を処理します。S教も、こうした古来から日本に存在する宗教観を採用しており、私にとっても受け入れやすい教えでしたが、自分の心の闇の問題解決にはつながりませんでした。

 そもそも、人間は本来、罪穢れのない聖い存在なのでしょうか?

 人間の「罪」とは、ダイヤモンドの表面についたホコリや汚れにすぎないのでしょうか。

 人間が本来清浄ならば、キリストによる罪の赦しも贖いも必要がないでしょう。キリストが十字架で死んでも死ななくても、復活してもしなくても、私たちには何の関係もありません。ならば世界の3分の1が信じてるキリストの死と復活は、歴史上稀に見る不可解な事件であり、世界で最大の茶番劇だったのでしょうか?それとも、人類の歴史を変える大事件だったのでしょうか?

 キリスト教がホンモノかニセモノか?」「キリストと対決したい!」という気持ちになっていきました。

 こうして、自分の中の闇の部分、罪の問題に向き合う中で、以前から興味があったキリスト教や聖書について本腰を入れて学ぶようになっていったのです。